葛飾区山本亭が世界で絶賛される理由とは?皇室ご視察と名園の秘密を徹底解剖
この名建築が柴又の地に誕生した背景には、日本近代史の大きな転換点である関東大震災の歴史が深く関わっています。もともと山本亭の建物は、浅草・小島町にあった実業家・山本栄之助(やまもと えいのすけ)氏の私邸でした。
山本栄之助氏は、カメラの部品(蛇腹やシャッター関連部品など)を製造する「山本工場」の創業者として財を成した人物です。しかし、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災によって浅草周辺は壊滅的な被害を受けました。震災直後の混乱期には、隣接する南葛飾郡亀戸町(現・江東区亀戸)や荒川放水路周辺で第二次亀戸事件が起きるなど、東京の下町エリア全体が未曾有の激動に巻き込まれていました。
この震災を機に、山本氏は工場と自宅の再建の地として、地盤が比較的安定し江戸川の豊かな自然に恵まれた現在の葛飾区柴又を選定しました。浅草の旧宅から焼け残った良質な木材などを運び込み、1926年(大正15年)頃から1930年(昭和5年)にかけて4回にわたる増改築を重ね、現在の山本亭の原型を完成させたのです。その後、長らく山本家の住居として使用されていましたが、1988年(昭和63年)に葛飾区が取得し、1991年(平成3年)4月から一般公開がスタートしました。
長屋門・書院造・鳳凰の間が織りなす登録有形文化財の美
山本亭の建築としての最大の見どころは、大正から昭和初期にかけて裕福な実業家たちの間で流行した「和洋折衷建築」の粋が集められている点です。現地を訪れたら必ずチェックしておきたい3つの建築ポイントを整理しました。
- 重厚な「長屋門(ながやもん)」:江戸川堤防側からのアプローチに構える門は、武家屋敷の様式を取り入れた堂々たる長屋門です。一方で、外壁の一部には洋風の意匠や鉄格子が組み込まれており、入り口からすでに和と洋の融合が始まっています。
- 伝統美が光る「書院造(しょいんづくり)」の和室群:建物内部の主屋は、伝統的な書院造を基調としています。釘を一本も使わずに幾何学模様を組み上げた「組子細工(くみこざいく)」の欄間や、銘木を惜しみなく使った床の間、そして庭園の景色を絵画のように切り取る「額縁庭園」の技法が見事です。
- モダンな洋風応接間「鳳凰の間(ほうおうのま)」:玄関を入ってすぐの場所に配置されているのが、来客用の洋間である「鳳凰の間」です。重厚なマントルピース(暖炉)や、当時のガラス技術を駆使したステンドグラス、天井の漆喰レリーフ(鳳凰の装飾)など、大正ロマンの香り漂う本格的な西洋空間が広がっています。
江戸時代には幕臣・榎本武揚が下町の粋な左官職人や芸人を重用した逸話が残るように、東京の東エリアには古くから「職人の高度な技を粋に楽しむ」文化が根付いていました。山本亭の細部にあしらわれた左官技術や建具の意匠にも、そうした近代東京の名工たちのプライドが色濃く息づいています。